Aemilius Lepidus 家


Aemilius Lepidus 家の系図
アエミリウス・レピドゥス家






 家名レピドゥスは“優美な”を意味し、レピドゥス家は共和政期中にアエミリウス氏族の中で最もそれに相応しいことを証明した。レピドゥスという名は帝政期にも、他の氏族、また奴隷や解放奴隷の間にも広く普及した。

 レピドゥス家中最も有名なのは第二回三頭政治の一角を占めたマールクス・アエミリウス・レピドゥスであるが、その祖先で前179年から前152年にかけて元老院主席にあったマールクス・アエミリウス・レピドゥス(彼は知られている中で最も長期に渡って元老院主席を務めた人物である)も忘れることはできない。また、三頭政治のレピドゥスの父はローマに対し反乱を起こし、カエサルの先例となった。

 レピドゥス家は帝政に入ってからも有力な人物を輩出し、アウグストゥスの一族と複数の姻戚関係を結んだが、他のすべての氏族と同じく勢力の凋落を防ぐことはできず、ガルバ帝の妻を出したところで史書の記述は絶える。帝政期に入ってからのレピドゥス家の人物には放縦な人物もあったが、節度をわきまえた人物もまたいたという点で好ましく感じられる。       




Marcus Aemilius Lepidus
 マールクス・アエミリウス・レピドゥス

貴族
孫:Marcus Aemilius Lepidus(232執政官)
285 執政官

 マールクス・アエミリウス・レピドゥスは前285年の執政官であるが、その名前が出てくるのはファースティー(神殿の壁に刻まれていた執政官の表)においてのみである。






Marcus Aemilius Lepidus
 マールクス・アエミリウス・レピドゥス

貴族 ?-216
祖父:Marcus Aemilius Lepidus(285執政官)
父:Marcus
息子:Marcus Aemilius Lepidus(218法務官等)
   Lucius Aemilius Lepidus
   Quintus Aemilius Lepidus
孫:Marcus Aemilius Lepidus(187執政官等)
232 執政官
222〜219間 補欠執政官
?-216 鳥占官

 マールクス・アエミリウス・レピドゥスは恐らく前285年執政官のレピドゥスの孫で、執政官を2度、および鳥占官を務めた。彼の最初の執政官職は前232年で、同僚執政官と共にサルディニアに送られて戦役を戦い、そこで戦利品を獲得した(ポリュビオス、2.21:ゾナラス、8.18)。

 彼の2度目の執政官職の年は不明確であるが、前221年〜前219年の間のどの年かの補欠執政官ではなかったかと考えられる。

 彼はカンナエの戦いのあった前216年に死んだ。彼の3人の息子たちは、3日間続く彼に敬意を表す葬儀の競技を開き、22組の剣闘士たちがフォルムの中で戦った(リーウィウス、23.30)。





Manius Aemilius Lepidus Numida
 マーニウス・アエミリウス・レピドゥス・ヌミダ

貴族 ?-211
父:Manius
236以前-211 Decemviri Sacris Faciundis

 マーニウス・アエミリウス(・レピドゥス・ヌミダ)は、前236年以前にDecemviri Sacris Faciundis(恐らく、シビュラの書を調べ解釈するための十人委員)で、3度目の百年祭(Saecular Games)の責任者であった(以上のことは『The Magistrates of the Roman Republic』による記述。その典拠はCIL、Fast.Cap.、デグラッシなどとある。しかし『The Oxford Classical Dictionary』などによると、百年祭(secular games)が開かれたことが分かる最初の確実な年は前249年で、次が前146年である。)。

 前211年に、Decemviri Sacris Faciundisであったマーニウス・アエミリウス・レピドゥス・ヌミダが死去した(リーウィウス、26.23)。この年に死んだこのアエミリウス・ヌミダが、前236年の百年祭の儀式の長であったマーニウス・アエミリウスと同一人物であるという事はありそうなことであると考えられている。彼の後継としてDecemviri Sacris Faciundisを継いだのはマールクス・アエミリウス・レピドゥス(218年法務官等)であった。






Marcus Aemilius Lepidus
 マールクス・アエミリウス・レピドゥス

貴族
父:Marcus Aemilius Lepidus(232執政官)
弟:Lucius Aemilius Lepidus
  Quintus Aemilius Lepidus
息子:Marcus Aemilius Lepidus(187執政官等)
218 法務官(シチリア)
216 補欠?首都法務官
213 外国掛法務官及びルケリア
211- Decemviri Sacris Faciundis

 マールクス・アエミリウス・レピドゥスは、前232年に執政官を務めたレピドゥスの長男で、ルーキウスとクィーントゥスという2人の弟がいた。

 彼は前218年に法務官となり、シチリアで指揮を執った。「カルタゴ艦隊迫る」の報せを受けた彼はリリュバエウムの防備を強化し、来るべき敵に備えて警戒を怠らなかった。このため、急襲をもくろんでいたカルタゴ艦隊はその出鼻をくじかれて、海戦を行わざるを得なくなった。船と船のぶつかり合いを望むカルタゴ側に対してローマは接近しての戦いを望み、船を接舷させた。この戦いはローマの圧倒的優勢のうちに終わり、ローマ側は一隻の船も失わずにすんだ(リーウィウス、21.49〜51)。

 彼は前216年の執政官に立候補して落選したが、おそらく首都法務官代行となった。同年、父が亡くなり、彼ら3人兄弟たちは、3日間続く亡父に敬意を表す葬儀の競技を開き、22組の剣闘士たちがフォルムの中で戦った(リーウィウス、22.35,23.20,23.30)。

 前213年にはおそらく外国掛法務官となり、外国宗教の広がりに対抗した(リーウィウス、25.1)。前211年、マーニウス・アエミリウス・レピドゥス・ヌミダの後を継いでDecemviri Sacris Faciundisとなった。









Marcus Aemilius Lepidus
 マールクス・アエミリウス・レピドゥス

貴族 ?-152
祖父:Marcus Aemilius Lepidus(232執政官等)
父:Marcus Aemilius Lepidus(218法務官等)
息子:Marcus Aemilius Lepidus(190軍団将校)
201-199 大使
193 上級按察官
191 法務官(シチリア)
190 政務官代行(法務官代行?)(シチリア)
187 執政官
183 ムティナとパルマの創設三人委員
179 監察官
177 ルナの植民市民創設三人委員
175 執政官II
173 リグリアとガリアの土地分配十人委員
170 大使
199-152 神祇官
180-152 最高神祇官
179,174,169,164,159,154 元老院主席

 前2世紀の最も有力な元老院議員の一人。恐らく前218年法務官のレピドゥスの息子で、彼はガリア・キサルピナの征服に重要な役割を果たし、そこで2度の執政官職を過ごしてローマ市民の大規模な植民に携わった。アエミリア街道の敷設などにより北イタリアに絶大な影響力を確立し、それを前1世紀の子孫が受け継ぎ拡大した。前179年には、かつての政敵マールクス・フルウィウス・ノビリオルと和解をして民会改革に着手し、またバシリカ・アエミリアなど、各種の建造物を建設した。前179年の監察官職就任時から、類い希なる長寿に恵まれて前152年に死去するまで元老院主席の座にあったが、共和政時代全体を通じて、彼以上の長期にわたって元老院主席の地位にあった人物は知られていない。


 第二次ポエニ戦争をローマがようやく終結させた翌年の前201年、マケドニアのフィリッポス5世の侵略行為にさらされているとして、まずアテナイ人が、次いでペルガモン王アッタロスとロードス人の使節がローマに訴えてきた。このため事態を重く見た元老院は、3人の使節を東方に派遣した。

 3人の内訳は、使節主席がガーイウス・クラウディウス・ネロー(前207年執政官等)で、第二次ポエニ戦争中にハスドルバルを敗死させた事で名高い。使節団中の最年長はプーブリウス・センプローニウス・トゥディーターヌス(前204年執政官等)であり、名声の点ではクラウディウスに劣っていたが、ギリシアで戦った経験があり、また執政官になる前に監察官になった異例の経験を持つなど、顕職を歴任した人物であった。レピドゥスはこの中に、まだ30歳ぐらいの、おそらくは財務官格にすぎぬ元老院議員として(もしくはまだ元老院にも属さない青年貴族として)加わったが、それは彼が親ギリシア主義者で、ギリシアの事情に詳しかったからだと思われる。そしてレピドゥスは3人の使者のうち最も若かったにもかかわらず、最も力と影響力を持っているように見えたという。

 使節団は、表面上はエジプトに対して送られたことになっていたが、実際には反マケドニアの統一戦線を形成する任務を帯びて、ギリシア、ロードス、ペルガモン、エジプトに赴いていた。それゆえ、レピドゥスが年若いプトレマイオス5世の後見人としてエジプトに送られたという話(その時共和国の確固とした同盟国であったエジプトの宮廷から、彼らの幼い君主プトレマイオス5世エピファネスのために、王国の政務を執るのに誰かを送る様、求められていたため……という話(タキトゥス『年代記』2.67;ウァレリウス・マークシムス、6.6.1))は、否定されるべきである。しかし、のちにレピドゥスがエジプトと密接な関係を築いたのは事実であり、彼のプトレマイオス王家との庇護関係はおそらくこの使節がエジプトを訪れた時にさかのぼるのであろう。

 使節団はアテネで、マケドニアの将軍ニカノールに、フィリッポス5世のギリシア撤兵を求めるローマ元老院の強い要求を手渡した。しかしローマの民会がまだ開戦を決議していなかったので、使節団は慎重に行動していたが、やがてローマで元老院の主戦派の説得が功を奏して民会が開戦を決議すると(前200年7月)、すでにロードスに来ていた使節団は、ここからアエミリウス・レピドゥスを代表としてアビュドスにいたフィリッポス5世のもとに送り、ローマ側の最後通告を伝えたのである。その時のレピドゥスの誇り高く傲慢な態度にフィリッポス5世は少なからず驚き憤然としたが、レピドゥスの若さと、美しさと、ローマ人であることとに免じて彼を宥したという(リーウィウス、31.2。ポリュビオス、16.27)。この結果起こった第二次マケドニア戦争は、前197年にティトゥス・クィーンクティウス・フラーミニーヌス(前198年執政官等)がキュノスケファライでマケドニア軍を打ち破り、その和約でフィリッポス5世はギリシアにおけるマケドニアの支配権を放棄することになった。

 レピドゥスは前193年に上級按察官となったが、この時の同僚は後に第三次マケドニア戦争の戦勝者となるルーキウス・アエミリウス・パウ^ルス(前182年執政官等)で、この時のパウ^ルスは「按察官の職を得た時には競争者12人を破ったが、それはいずれも後に執政官になった人々だったと云われている」(プルータルコス、『アエミリウス・パウルス伝』3.1)と記述されており、同じ栄誉はレピドゥスにも当てはまるであろう。この上級按察官の時、レピドゥスはテヴェレ川岸にアエミリア回廊を建設(リーウィウス、35.10.12)した。このアエミリア回廊(ポルティクス・アエミリア)は、主に小麦の集積貯蔵を目的とする倉庫兼取引所のような建物で、幅60m、奥行き487mもの大きさがあり、オスティア港から運ばれてきた物資を集積するために使われた(『皇帝たちの都ローマ』P11〜15に地図、断面図などあり。また『ローマ古代散歩』P73には、現在でも一部の遺構があると記述されている)。

 さらにレピドゥスは前191年に法務官となって管轄としてシチリアを受け持ったが、この年の終わりに官職を請い求めるために元老院の許しなしに管轄属州を離れて非難されたため、前190年にも恐らく少なくともシチリアの一部で引き続き法務官代行として指揮を執った(リーウィウス、37.47.6)

 レピドゥスは前187年には執政官職に到達したが、それはその前の2年を選挙に敗れた後にであった。彼の信じるところによれば、その2回の落選は彼の憎むべき対抗相手マールクス・フルウィウス・ノビリオル(前189年執政官等)の影響力のためであった。レピドゥス自身、元来スキーピオー派と結びついており、フルウィウス派とはここ10年来の政敵であったのである。

 執政官となったレピドゥスは、マールクス・フルウィウス・ノビリオルが前189年のアイトリア戦争でアンブラキアの町を降伏させた後、ローマの戦争の掟に背いてこの町の美術品等を略奪したことを取り上げて非難し、アンブラキアに好意的な元老院決議を成立させた。しかし、この年にノビリオルが戦利品をともなって帰還した時の凱旋式を阻止はできなかった。またこの執政官職の時、彼は同僚のガーイウス・フラーミニウスと共に、ガリア・キサルピナでリグリア人の征服をおこなって成功し、アリミヌム(現リーミニ)からプランケンティア(現ピアツェンツァ)までのアエミリア街道の建設を始めた。このアエミリア街道は現代でも、北イタリアにおける最も重要な幹線道路の一つであり、それが走る地域名はエミリア・ロマーニャ州と呼ばれ、州名に彼の名が残っている(同地域の東半分を指す呼称の「ロマーニャ」は、東ローマ帝国に征服された土地であったことに由来している)。

 彼は前183年に、ムティナ(現モデナ)とパルマ(現名同じ)の植民市を建設するための三人委員の一人となり、ガリア・キサルピナに戻った。両植民市はアエミリア街道沿いに位置し、ガリア・キサルピナの領域に属していたのであり、今までにイタリア内だけで建設されていた植民市とは明らかに意味合いが違っていた初の例であった。そのムティナとパルマに、レピドゥスら三人委員は、これまで不変であった植民者の定数である300人を遙かに超える2000人をそれぞれ送り込んだ。植民者は恐らく、ガリア・キサルピナの地を防衛し、ローマ化する意味合いを持たされていたのであろう。

 レピドゥスは前199年以来神祇官となっていたが、たまたま前180年末にその時の最高神祇官が死去したため、その後継者の地位を得ようとした。また、前179年には監察官の選挙があるはずで、レピドゥスはこの地位もねらっていた。監察官はその年の執政官が司会する民会で選ばれるのだが、司会者は強い実権を持つ。ところが、この年の執政官には、前述のマールクス・フルウィウス・ノビリオルの二人の従兄弟が揃って就任する事がすでに決まっていたのである。

 レピドゥスはそこで、これまでの政敵であったフルウィウス氏と政治的取り引きをおこなった。すでに神祇官団内の有力者であったレピドゥスは、新しく生じた神祇官の空席に前179年の執政官のクィーントゥス・フルウィウス・フラックスを入れ、その力を借りて自分が最高神祇官になった。というのは、最高神祇官は、9名の神祇官の中の最新任者(最高神舐官に選ばれる可能性の最も少ない者で、今の場合フルウィウス・フラックスとなる)が司会する特殊な民会で選挙されることになっていたのである。こうしてレピドゥスは、自分より先輩の神祇官がいたにもかかわらず、これを出し抜いて最高神祇官になったが、さらにこの取引きによってレピドゥスは監察官に選ばれ、同僚の監察官となったマールクス・フルウィウス・ノビリオルと公衆の面前で劇的な仲直りの場を演じた(これはキケロの時代まで語り継がれる「美談」になった)。これによってレピドゥスは、元老院首席に指名された。

 監察官としてレピドゥスは、フルウィウス・ノビリオルと共に民会改革と、大規模な建設をおこなったが、その建設の中にはフォルム・ロマーヌムのバシリカ・アエミリア・エト・フルウィアと、アエミリウス橋(リーウィウス、40.51)が含まれていた。前者はバシリカ・アエミリアとしてフォロ・ロマーノに、現在でもかなりの面積を占める遺跡が残っている。後者のアエミリウス橋は、この前179年にレピドゥスらが着工し、前142年プーブリウス・コルネーリウス・スキーピオー・アエミリアーヌスとルーキウス・ムンミウスが執政官であった時に完成した。これはローマ最初の石造りの橋のうちの一つであり、中世に何度も修復されたが、1598年には大きく崩壊してアーチが一つだけ残骸として残り、そのままの姿で現在でも残されている。

 その他の建設としてレピドゥスは、ルーキウス・アエミリウス・レーギ^ルス(前190年艦隊司令官)が前190年に誓約したラレス・ペルマリニ・イン・ポルティク・ミヌキア神殿の奉献を、また、前187年に誓約されたディアナ・アド・キルクム・フラミニウム神殿と、ユノ・レギナ・アド・キルクム・フラミニウム神殿の凱旋行路沿いへの奉献をおこなっている。

 前177年にレピドゥスは、ルナの植民市民創設三人委員の一人となった。ルナ(現在は遺構のみ)はリグリア海に面しており、リグリア人の侵攻に対する防衛の拠点の役割を持たされたのであろう。ここにも2000人のローマ市民が植民者として定住した。これらムティナ、パルマ、ルナ等の大規模な植民市は優遇され、比較的大幅な自治権を持ち、戸口調査や徴兵をローマの政務官の支配を受けず自らの管理下においた。

 レピドゥスは前175年にプーブリウス・ムキウス・スカエウォラと共に2度目の執政官となり、両執政官は再度リグリアで戦って勝利し、凱旋式を挙行した。この勝利によって恐らく、ローマの北イタリアの征服は終わったものと見られる。前173年にレピドゥスは、リグリアとガリアで土地を分配する十人委員の一人となったが、この土地分配は植民市の創設を伴わないものであった。それはこのアエミリア街道沿いの地方の安全が確保されたことを示している。

 前170年にレピドゥスは、前171年の執政官カッシウスが犯した悪行に関して、ガリア人の王キンキビリスが抱いた不満に対して応えるためにアルプスを越えて送られた(リーウィウス、43.5.7,10)。これは並はずれた威厳の大使であった。

 レピドゥスは前179年から6度、元老院首席となり、前152年の彼の死まで最高神祇官を務めた。

 彼は80歳前後という、当時のローマ人に稀な長寿を得て、栄誉のうちに死去した。彼が息子達に与えた、自分の埋葬に関する平明で簡単な方法への厳格な命令から判断すると(リーウィウス、抜き書き48)、レピドゥスはスキーピオーらとその友人たちがローマにもたらした上品ではあるが贅沢な習慣に敵対するローマの貴族の党派に属していたのかもしれない。

 彼の息子や孫については、あまり明らかではない。彼は幾人かの息子を残したようであるが、彼の息子の一人であると言及されている(リーウィウス、37.43)前190年の軍団将校のマールクス・アエミリウス・レピドゥスの他に、前137年執政官のマールクス・アエミリウス・レピドゥス・ポルキーナや、前126年執政官のマールクス・アエミリウス・レピドゥスも彼の息子と見なせるかもしれない。しかし年代的には後者二人は、彼の孫だと考えた方が良いであろう。前78年執政官のマールクス・アエミリウス・レピドゥス(三頭政治のレピドゥスの父)は、彼の子孫であることは確実なのだが、その父の名はクィーントゥスであるため、ここでも系統が不明である。

 キケローは三頭政治のレピドゥスを、この項のレピドゥスの曾孫だとしている(『ピリッピカ』13.7)が、年代的にはかなり苦しい。孫の孫(玄孫)か、あるいはさらにその子(来孫)ではないだろうか。


 もしかしたら彼は、まだ少年であるのに軍隊で仕え、敵を殺し、市民の命を救ったと言われるレピドゥスであるかもしれない(ウァレリウス・マークシムス、3.1.1)。三頭政治のレピドゥスが貨幣鋳造委員としておそらく前61年もしくは前59/8年に発行した下の貨幣には、表面に女性の頭部が、裏面には騎手が描かれている。敵の首級を担ぎ意気揚々と馬に跨る人物は、トガを着用し、首飾りを身に付けている。トガ(緋色の縁取りのトガ)と首飾り(魔除けの護符ブ^ラ)は、この人物が少年であることを現す標識であろう。銘文は「M.LEPIDVS AN.XV. PR.H.O.C.S」すなわち、「M.Lepidus annorum xv. praetextatus hostem occidit, civem servavit.」で「マールクス・レピドゥス、15歳の者、進みて敵を打ち倒し、市民を救済せり」。馬上の人物は、少年時に敵の軍勢に突撃し軍功を挙げたとされる、のちの最高神祇官にして元老院主席マールクス・アエミリウス・レピドゥスと推定されている。ウァレリウス・マークシムスによると、彼は少年時の軍功に対し、カピトル丘にブ^ラと緋色の縁取りのトガの像を捧げられたという。




 下のレピドゥスのコインは、前述した彼のエジプトへの使節に触れたものであり、彼がプトレマイオス5世の保護者としてふるまっている。コインの表には、ALEXANDREAという文字と共に、アレクサンドリアの町の象徴を意味する女性の首が描かれており、裏ではレピドゥスが王の頭に王冠を掲げており、M.LEPIDVS PONT.MAX. TVTOR REG.S.C.という文字が書かれている。ここにレピドゥスが最高神祇官と記述してあること、及びウァレリウス・マクシムスが(6.6.1)、彼の後見人の職務に関連して、最高神祇官と2度執政官になったと記していることから、Pighiusは(Annal. vol.ii. p.403) レピドゥスはプトレマイオス6世と7世の後見人であったに違いないと推察していた。しかしEckhel(vol. v. pp. 123-126)は、この見方を巧みに論破した。このコインはレピドゥスの子孫によって刻まれたもので、そのレピドゥスの子孫はこのコインで賛美されたものが後の時代のものであったにもかかわらず、彼の先祖の有名な職の一つをこのコインに打刻して自然に紹介しようとしたのだと。






Marcus Aemilius Lepidus
 マールクス・アエミリウス・レピドゥス

貴族
祖父:Marcus Aemilius Lepidus(218法務官等)
父:Marcus Aemilius Lepidus(187執政官等)
190 軍団将校

 前187年執政官であったマールクス・レピドゥスの息子。マグネシアの戦いの時、戦列中の指揮官ではなく後ろに置かれていた野営地の指揮官であったが、アンティオコス大王の軍勢がローマ軍戦列をその右翼で突破し野営地に向かってきたのに対して、自軍部隊を指揮して押しとどめて穴を埋め、マグネシアの戦いの勝利に貢献した(リーウィウス、37.43.1-5)。








Marcus Aemilius Lepidus
 マールクス・アエミリウス・レピドゥス

貴族
祖父:Manius
父:Manius
161迄に 法務官
158 執政官
143 Decemviri Sacris Faciundis

 前158年の執政官で、プリニウス(HN.xxxiv.6)とファースティーにのみ言及されている。この前158年執政官の時に、マケドニアの鉱山を再開した。

 ウィ^リウス法のため、前161年までには法務官となったはずである。

 前143年にDecemviri Sacris Faciundisであったと、シビュラの予言書に記述されている。









Marcus Aemilius Lepidus Porcina
 マールクス・アエミリウス・レピドゥス・ポルキーナ

貴族
祖父:Marcus
父:Marcus
143 法務官?
137 執政官
136 執政官代行(ヒスパニア・キテリオル)
125以前から 鳥占官

 前143年に首都法務官か。この時彼は、シビュラの書に反してカピトリウムに水道橋の水をもたらそうとするクィーントゥス・マルキウス・レークス(前144年首都法務官等)を助力し、許可を得る事を助けた。

 前137年に執政官となり、ヌマンティア人によって打ち破られた同僚のガーイウス・ホスティーリウス・マンキーヌスの後任執政官としてスペインに送られた。しかしまだヌマンティアに対する攻撃態勢が整わず、本国からの増援を待っている間に、彼はウァッカエイ族(ヒスパニア・タラコネンシスにいた好戦的な一種族)を、彼らがヌマンティアを支援していたということを口実として攻撃することを決定した。この決定は彼が名声を得たいということだけからおこなわれた。元老院は彼の意図を知ると、多くの災禍を経験した後でヒスパニアでの新しい戦争に不賛成だったので、すぐに彼の企図をやめさせる命令を出すための代理人を送った。

 しかしながらレピドゥスはその代理人が到着する前に戦争を始めており、彼と関係のあった、ヒスパニア・ウルテリオルでかつて指揮をとり、かなりの経験と技術を持っている将軍であるデキムス・ユーニウス・ブルートゥス・カ^ライクス(前138年執政官等)を助力として呼び寄せていた。しかしその助けにも関わらず、レピドゥスの企図は成功しなかった。広野を荒らした後、この2人の将軍はウァッカエイ族の首都であるパ^ランティア(今のパレンシア)の包囲を用意した。ところが彼らは食糧の欠乏に恐ろしく苦しみ、包囲を解かざるを得なくなった。そして退却時にその軍のかなりの部分を敵に撃破されてしまったのである。このことは、レピドゥスが執政官代行であった前136年に起こった。そしてこの知らせがローマに届くと、レピドゥスは指揮権を剥奪され、罰金を科された。

 レピドゥスは前125年に鳥占官であったが、その時の監察官グナエウス・セルウィーリウス・カエピオー(レピドゥスの古くからの政敵であった)と、ルーキウス・カッシウス・ロンギーヌスから、6000セステルティウスもの高額で家を借りた咎で罰せられた(ウァレリウス・マークシムス、8.1。キケローは「豪華すぎる家を建てたことを釈明させられた」としている。『ブルートゥス』97)。

 レピドゥスは、教育と洗練されたセンスを持った人物であった。キケローは彼の演説を読んだことがあったが、彼のことを「弁論にかけては神的」(『弁論家について』1.10)と評し、彼の時代の最も偉大な雄弁家であったとしている。

 また彼は、ラテン語の修辞に、流暢でよどみない言葉と、ギリシア語に特有な人工的な文章の構造を紹介した最初の人であったとも言われている。レピドゥスは、ティベリウス・グラックスやガーイウス・パピーリウス・カルボー(120執政官等)らの演説スタイルを形作るのを助けたが、彼らはレピドゥスの演説を充分注意して聞き慣れていたのだった。しかしながら彼は、法律とローマの制度に関する知識が非常に欠けていた(キケロー『ブルートゥス』25,86,97、『弁論家について』1.10)。

 政治的にはレピドゥスは貴族政治の党派に属していたように思われる。彼は執政官の時(前137年)、ルーキウス・カッシウス・ロンギーヌスによって提案された無記名投票を導入する法案(Lex tabellaria)に反対した(キケロー『ブルートゥス』25)。またレピドゥスは、前115年の執政官マールクス・アエミリウス・スカウルスによって提案された、恐らく贅沢規制のためのアエミリウス法の廃止に賛成だと話した。









Marcus Aemilius Lepidus
 マールクス・アエミリウス・レピドゥス

貴族
129迄に 法務官
126 執政官

 前126年の執政官で、ウィリア法から逆算すると前129年までには法務官職を経験していたと考えられる。

 『Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology』は、彼の祖父名をマールクス、父名をマールクスとし、前187年執政官のレピドゥスの孫で、前137年執政官のマールクス・アエミリウス・レピドゥス・ポルキーナの兄弟であると推測するが、同時に、兄弟で同じ個人名を持っていることを釈明することは困難である、と記している。

 『共和政ローマの寡頭政治体制』は、前114/113年の貨幣鋳造委員のマーニウス・アエミリウス・レピドゥスを、彼の息子であるとしている。






Marcus Aemilius Lepidus
 マールクス・アエミリウス・レピドゥス

貴族 120?-77頃?(病気)
祖先:Marcus Aemilius Lepidus(187執政官等)
祖父:Marcus
父:Quintus
息子:Lucius Aemilius (Lepidus) Paullus(50執政官等)
   Marcus Aemilius Lepidus(46執政官等)
   Aemilius Regillus
89 軍団将校?
82か81 副官?
81迄に 法務官
80 法務官代行(シチリア)
78 執政官
77 執政官代行(ガリア・トランサルピナ)

 前2世紀に元老院主席を長きにわたって務めたマールクス・アエミリウス・レピドゥス(187執政官等)の子孫で、そのガリア人との結びつきを受け継いだ。三頭政治のレピドゥスの父にあたる。ス^ラの死後、ス^ラ体制の破壊を目論んだ。ローマに対して反乱を起こし、ローマに進軍したが打ち破られた。


 大ポンペーイウスの父であるグナエウス・ポンペーイウス・ストラボー(前89年執政官等)の下で仕えた後、前86〜84年のキンナ支配の時代にはキンナを支持した。レピドゥスは恐らくス^ラの不在中に按察官となり、ス^ラの離婚した妻が自分の妻の親戚でもあったことから巧みにス^ラに接近し、政敵の財産没収によって相当な富をたくわえた。尤も、ス^ラはレピドゥスを信用していなかった。

 前81年までにシチリア管轄の法務官となり、そこでその圧政によって、あのウェレスを除けば誰にもひけをとらないほどの悪評を得た。史上シチリア総督を務めて離任したあと、断罪されたものが実に多数にのぼったが、レピドゥスはこれを免れたたった二人のうちの一人だった。

 彼はその後自分が、誉め称えられた護民官のルーキウス・アープレーイウス・サートゥルニーヌス(前103年護民官等)の娘であるアープレーイアと結婚していたので、その地位を得る資格が少しはあると考えたものか、民衆派の指導者になる、という野望にとらわれた。それゆえ、彼は前78年の執政官職を、ス^ラに対抗して求めた。この前年独裁官職を辞していたス^ラは、あまりにも自分の権力がうまく確立されていたので、レピドゥスが行える何かによって動揺させられないと感じ、それゆえにその選挙に反対する努力をしなかった。

 ところが、新進のポンペーイウス・マグヌスの虚栄心は万能のス^ラの意向に対抗して候補者を当選させるという願望で燃え上がり、レピドゥスを当選させるために熱心に努力し、その結果、それが成功したばかりでなく同僚となった与党のクィーントゥス・ルターティウス・カトゥルス以上の得票を得た。ス^ラはこれらすべてのなりゆきをまったくの無関心で眺め、この選挙から意気揚々と戻ってくるポンペイウスに会った時に、ポンペイウスに警告するだけで満足した。

 この前78年にス^ラが死ぬと、すぐにレピドゥスとカトゥルスは執政官職を開始し、ス^ラの法を廃止し、ス^ラが打ち立てた貴族政治の体制を転覆させる大胆な試みをレピドゥスに決心させた。イタリアには大量の不満の材料があり、多くの軍隊を集めることは難しいことではなかったろう。しかし貴族党の勝利は、ス^ラの軍隊の入植によってしっかりと固められていたので、レピドゥスが行うかも知れない何らの試みも恐れにはならなかった。というのは、レピドゥスはそのような大きな改革を指導するための充分な影響力も、充分な才能も持たなかったからである。その上レピドゥスは、貴族党のままであったどころか貴族政治を固めようとしていたポンペイウスの助力を当て込んでいたように思える。

 レピドゥスの最初の行動は、カンプス・マルティウスへのス^ラの埋葬を妨げようと努めることだったが、ポンペイウスの反対によってこの計画は断念せざるを得なくなった。彼は次に、ス^ラの体制を廃止する目的でいくつかの民衆寄りの法律を提出し、短期間ではあるが単独支配をおこなったが、それらの正確な条項は古代作家らによって言及されていない。しかしながらレピドゥスが、追放されたすべての人々を呼び戻す提案をし、また、彼らが他の貴族たちにゆずらされた財産を回復させたことは分かっている。これらの法案は、ス^ラ体制の基礎を脅かし、反ス^ラ派の多くの人々に訴えたものであったが、ただ全イタリアを再びの混乱に投げ込んだだけだった。ローマでは、最大の社会的不安が広まった。

 この時レピドゥスは、ユーリウス・カエサルを大変有利な条件で盟約に誘ったという。カエサルはレピドゥスの企図に望みを抱いてローマに帰国していたが、しかし結局思いとどまった。それはレピドゥスの才能に見切りをつけたためでもあり、予想していた以上に機会の熟していないのを見て失望したためでもあった(スエトニウス、『ローマ皇帝伝』カエサル、3)。

 カトゥルスは保守派で、自分自身を貴族政治の不変の、断固たる味方と見せており、レピドゥスの法案に対して拒否権を行使するために護民官職を手に入れたようだった。この二人の貴族の関係の悪化は最高潮に達し、元老院は当面の悪いことの発生を避けるために両執政官に相手に武器を使わないように説いて誓わせる以外の回避方法がないと見た。両名ともにこれを受け入れた(レピドゥスの方がより好意的だった)。というのもこの宣誓というのは、レピドゥスの解釈によれば、執政官の任期中にしか効力を持たないものだったし、彼には来るべき競争に備えて資金を調達する時間もあった。

 その後両執政官はエトルリアへ反乱鎮圧のため派遣された。この反乱は元々レピドゥスの煽動により引き起こされたもので、彼はこの時政府と手を切り、反乱にくみした。祖先のレビドゥス(前187年執政官等)以来のガリア・キサルピナでの広範な庇護関係により強固な軍隊を擁し、トランサルピナで軍隊を集め、スペインでセルトリウスと接触し、元老院に大きな恐怖を与えた。

 しかし次の年前77年の始めに、レピドゥスは元老院によって共和国の敵と宣言された。レピドゥスの考えを支持し、ガリア・キサルピナで指揮していたマールクス・ユーニウス・ブルートゥス(前83年護民官等。カエサルを暗殺したブルートゥスの父)の軍を待つことなく、レピドゥスはローマに向かってまっすぐに進軍した。そこではカトゥルスが待ちかまえて準備していた。戦いはカンプス・マルティウスで、ローマの城壁の下で行われ、レピドゥスは簡単に打ち破られ、逃げ出さざるを得なかった。その間ポンペイウスは、ガリア・キサルピナのブルートゥスに対して進軍し、打ち破って殺した。

 カトゥルスはエトルリアに、退却したレピドゥスを追って行った。レピドゥスはその軍の残余と共にサルディニアに渡った。そこで彼は副官のTriariusに打ち負かされ、彼はすぐ後に無念と悲哀のうちに死去したが、その悲しみは妻の不貞が見つかったことによって増加していたと言われた。彼の部下たちは、M.Veiento Perpernaの下、最終的にセルトリウスに参加した。

 レピドゥスは、属州ガリアを統一することの戦略的重要性をはっきりと理解した最初の人であったが、その洞察を役に立たせるだけの軍事的能力に乏しかった。カエサルは、彼に共鳴していたものの、彼の軍に加わることは拒絶した。しかし彼の例を忘れなかった。

 キケローの手紙(『アッティクス宛書簡集』12.24.2)には、恐らくこのレピドゥスがレーギ^ルスという名の息子を持っていたが、キケローがそれを書いた時には死んでいたということが書かれている。恐らくレピドゥスは、アエミリウス氏族の中に、レーギ^ルスという家名を復活させようとしたのだろう。彼がその長男にパウ^ルスという名を与えたように。









Mamercus Aemilius Lepidus Livianus
 マーメルクス・アエミリウス・レピドゥス・リーウィアーヌス

貴族
祖父:- / Marcus
父:Mamercus
実父:Marcus Livius Drusus(112執政官等)?
88,82-81? 軍団将校
81迄に 法務官
77 執政官
73以前-60頃 神祇官
70 元老院主席?

 そのあだ名リーウィアーヌスが示すように、彼は恐らく前112年の執政官であるマールクス・リーウィウス・ドルーススの息子である。レピドゥス家の養子となり、前77年に執政官となった。

 彼は貴族党に属しており、若きユリウス・カエサルの命を救うようにス^ラに説得した、影響力のある人物たちのうちの一人であったと言われている(スエトニウス、『ローマ皇帝伝』カエサル、1)。

 彼は最初に執政官職を得ようとした時に失敗したが、それは彼が非常に金持ちなのにもかかわらず按察官職に伴う費用を避けるためにその職を辞退したと思われていたからであった(キケロー、『義務について』2.17)。






Manius Aemilius Lepidus
 マーニウス・アエミリウス・レピドゥス

貴族
父:Mamercus
78迄に 前財務官
69迄に 法務官
66 執政官

 前84年から前78年の間に東方属州における前財務官を務め、前66年、キケローが法務官であったのと同じ年に執政官となった。彼は幾度かキケローによって言及されているが、政治的に重要な地位は決して獲得していない。

 前65年、彼がキケローに弁護されていたC.Corneliusに対する証人の一人となったことについて語られている。また、キケローのカティリナ事件の首謀者たちに対する判断に賛成した。

 彼は貴族党に属していたが、前49年に内乱が勃発すると、慎重な抑制を維持し、事の成り行きを見守るために彼のFormian villaに身を引いた。そこで彼はほとんど毎日のようにキケローと文通をしており、我々はそれらの手紙から知るのだが、レピドゥスはポンペイウスと一緒に海を渡る決心をせず、しかしカエサルが勝利を得そうであるならば、明け渡す決心をした。彼は結局、3月にローマに帰還した。







Lucius Aemilius (Lepidus) Paullus
 ルーキウス・アエミリウス・レピドゥス・パウ^ルス

貴族
祖父:Quintus
父:Marcus Aemilius Lepidus(78執政官等)
弟:Marcus Aemilius Lepidus(46執政官等)
兄弟:Aemilius Regillus
   Scipio
妻:Appuleia
その息子:Paullus Aemilius Lepidus(34補欠執政官等)
59 財務官
55 上級按察官?
53 法務官
50 執政官
43 使節

 ルーキウス・アエミリウス・レピドゥス・パウ^ルスは、三頭政治のレピドゥスの兄である。元来貴族党であったが、カエサルからの賄賂を受けて中立的立場をとった。カエサルの死後元老院側の党派に加わり、弟を「共和国の敵」と宣言した元老院議員のうちの一人となったが、三頭政治の成立の時に弟によって追放リストの最初に名前を書かれる事になった。しかし彼は逃げることを許され、小アシアのミレトスで死去した。

 彼は、ルーキウス・アエミリウス・パウ^ルスとも表記されるが、パウ^ルス家にではなく、レピドゥス家に属するのは疑いない。パウ^ルスという名は恐らく彼の父によって、マケドニアの征服者として名高いアエミリウス・パウ^ルスに敬意を表して付けられたものだった。パウ^ルスの名を持つ子孫は絶えたままになっており、彼の父はこの家系が、昔あったように、彼の息子のうちの一人によって再び存在するようにという希望を自然に抱いたのかもしれない。そしてこの名前により敬意を見せるため、彼は年長の息子にこれを与えた。というのは、ルーキウス・パウ^ルスの方が三頭政治のレピドゥスより年長であるということが、彼らが官職を得たそれぞれの日付からほぼ確実だと思われるからである。幾人かの著作家は、三頭政治のレピドゥスの方が、彼の父の個人名マールクスを受け継いでいるため、年長なのに違いないと考えている。しかし、マケドニアの征服者であるパウ^ルスの個人名がルーキウスであることから、かの父親が、年長の息子に自分自身の個人名を付けるという通常のローマの習慣からこの機会に別離したのだろうとも考えられるのである。

 アエミリウス・パウ^ルスは、その公的な経歴を貴族党への熱心な支援によって始めた。共和国における彼の最初の行動は、前63年のカティリーナの暴力の告発であった。この行動は、キケローが国家に対する偉大な貢献の一つだと誉めたものであったが、そのためにパウ^ルスは民衆派からの憎悪を受けた。その時彼はまだ本当の若輩だったに違いなく、そのため彼はその3年後まで財務官にはなれなかった。前59年、彼が法務官代行のガーイウス・オクターウィウス(アウグストゥスの父。この時法務官代行としてマケドニアに赴任していた)の下でマケドニアにおいて財務官だった時、彼はばかげた事に、ポンペイウスの生命を狙う陰謀に関係したうちの一人として、ルーキウス・ウェッティウスによって告発された。また彼は前57年に、キケローを追放から呼び戻す努力をしたということで言及されている。

 恐らく前55年(前56年とする資料もある)に、上級按察官として、彼はバシリカ・アエミリアの再建を開始した。前53年にパウ^ルスは法務官となったが、7月までそれは得られなかった。というのは、ローマで騒乱が起こっていたためで、その月まで選挙が妨げられていたのだった。

 彼は前50年、カエサルに対する最も断固たる敵のうちの一人であったマールクス・クラウディウス・マルケ^ルスと共に、執政官に選ばれた。しかし彼は、彼を執政官にした貴族達の希望をひどく失望させた。というのは、パウ^ルスは以前から首尾一貫して貴族党であったのに、カエサルが彼を1500タレントの賄賂でその陣営に引き込んだからである。パウ^ルスはカエサルを支援し、強情な敵側のままであった同僚の行動を妨げた。パウ^ルスが言うには、その1500タレントはバシリカの完成のために使ったという。この賄賂を受け取ったことで、彼はすべての党派からの信用を失い、それゆえにポンペイウスとカエサルとの内乱に参加しなかったのだろう。その後前44年のカエサル暗殺事件後、ムティナの戦争の間、彼はセクストゥス・ポンペイウスと元老院を相手に交渉し、後に元老院側の党派に加わった。

 彼は前43年6月30日、マールクス・レピドゥスを、アントニウスに加わったという理由で共和国の敵と宣言した元老院議員のうちの一人となった。そしてそれ故に、同年の秋に三頭政治が成立した時、彼の名前が彼の兄弟によって追放リストの最初に置かれたのである。しかしながら、彼を殺すために任命された兵士は、恐らくその兄弟の黙認のもと、彼に逃げることを許した。彼はアシアのブルートゥスのもとに行ったが、ブルートゥスの死の後、ミレトスに行った。彼はそこに留まり、三頭政治によって許されたにも関わらず、ローマに行くことは拒んだ。その後彼については言及されないので、恐らく彼はその後すぐに死んだのであろう。



 上のコインの表面にはウェスタが、裏にはバシリカ・アエミリアが描かれている。

 すでに言及したが、キケローはアエミリウス・パウ^ルスがフォルムのあるバシリカを修理し、また新しいバシリカの建設を始めた、と言っている。前者は、元々前179年に監察官のマールクス・アエミリウス・レピドゥスとマールクス・フルウィウス・ノビリオルが建てたバシリカであったに違いない。マールクス・フルウィウスはこのバシリカの建設にあたって主導的な役割を果たしたらしく(リーウィウス、49.51)、このバシリカは通常フルウィア・バシリカと呼ばれ(プルータルコス、『カエサル伝』29)、時々アエミリアとフルウィアのバシリカと呼ばれたが、しかしアエミリウス・パウ^ルスが修理した後はこのバシリカは常にパウリ、あるいはアエミリアのバシリカと呼ばれた。このバシリカの修理は、前54年にほとんど完成していたと同年にキケローが書いている。しかしながら、新しく建てられたというバシリカがどこにあったのかという疑問は、答えるのが難しい問題である。ある著作家は、その2つのバシリカはフォルムの他の一つの側に建てられたのではないかと言っている。しかし古代の著作家にアエミリアあるいはパウリのバシリカ以外のものが言及されていないことから、この考えはほとんどできないように思われる。それ故、Beckerは提案している。パウ^ルスが始めた新しい建設は、後にバシリカ・ユリアと呼ばれるものと同一なのではないか、と。特に、パウルスがはっきりと、これらのバシリカのうちの一つの建設のために、カエサルから金を受け取ったと言っているからである。キケローの手紙は、確かにパウルスが、カエサルの出費で新しいバシリカを建設したかのように述べている。そしてそれゆえ、アッピアノスとプルータルコスの記述は、パウ^ルスは執政官の時に計1500タレントをカエサルから賄賂として受け取り、彼はそれを費やしてバシリカ・アエミリアを作った、ということは必ずしも正しくない、ということになったのかもしれない。しかしこの間違いは非常に自然なことである。というのは、1500タレントでも新しいバシリカの建設には適切であり、後の著作家は自然に、その金は彼らの時代にアエミリウス・パウルスの名が付けられていた建物のたえめに費やされたのだと考えた。

 フォルムのバシリカ・アエミリアはパウ^ルス・アエミリウス・レピドゥス(34補欠執政官等)が資金を出して再建された。彼はこの項の人物の息子であり、前34年の彼が執政官の時に奉献されたのである。これは20年後の前14年、ウェスタ神殿をも焼失させた火事で焼け落ち、名義上はパウ^ルス・レピドゥスによって、しかし実際にはアウグストゥスとパウ^ルスの友人らによって再建された。この新しい建物は最も壮大なもののうちの一つであった。そのプリギュア産の大理石の支柱は特に有名であった(プリニウス、H.N.36.15,24)。それは後22年、ティベリウスの治世にマールクス・アエミリウス・レピドゥス(AD6執政官)によって再度修理された。









Marcus Aemilius Lepidus
 マールクス・アエミリウス・レピドゥス

貴族 90頃-12頃(老齢)
祖父:Quintus
父:Marcus Aemilius Lepidus(78執政官等)
母:Appuleia(Lucius Appuleius Saturninus(103護民官等)の娘)?
兄:Lucius Aemilius (Lepidus) Paullus(50執政官等)
兄弟:Aemilius Regillus
   Scipio
妻:Junia(カエサルの情人 Servilia の娘)
息子:Marcus Aemilius Lepidus
66 Monetal.ca.
53迄に 上級按察官?
52 中間王
49 法務官
48-47 執政官代行(ヒスパニア・キテリオル)
46 執政官
46-44 騎兵隊長
44-43 執政官代行(ガリア・ナルボネンシスとヒスパニア・キテリオル)
43-38,37-36 国家再建三人委員
42 執政官
40-36 アフリカ統治
60-12 神祇官
44-12 大神祇官

 三頭政治のレピドゥス。彼は、前187年と前175年に執政官であった最高神祇官のマールクス・アエミリウス・レピドゥスの直系の子孫であるが、キケローが言っているように玄孫の子か曾孫であったというのは疑わしい。

 マールクス・レピドゥスが最初に言及されたのは前52年で、その時彼は、クローディウスの死の後、民会を開く目的で元老院によって中間王に任命されたのだった。ローマはほとんど無政府状態であり、レピドゥスが、最初の中間王が執政官を選ぶための民会を開くことが普通だというわけではないという理由で民会開催を拒否したため、クローディウス側の暴徒によって彼の家は襲撃され、彼はかろうじて死なずに脱出した。

 前49年、ポンペイウスとカエサルの間で内戦が起こった時にレピドゥスは法務官で、カエサルの陣営に加わった。そして両執政官がポンペイウスと共にイタリアから逃亡したため、法務官であったレピドゥスは、イタリアに残っていた最も高位の政務官ということになった。そのためカエサルは、スペインに出発する時、ポンペイウスの部将であったアーフラーニウスとペトレーイウスに対する戦争を続けるために、レピドゥスにローマの名目上の責任者の地位を任せたが、彼は実際にはイタリアにおける平和の維持をアントーニウスに依存していた。カエサルがスペインにいて不在の間、レピドゥスは民会の議長を務め、民会でカエサルを独裁官に指名した。

 翌前48年、レピドゥスは属州ヒスパニア・キテリオルを執政官代行の官位と共に受け、そこで彼は、自らの性格を特徴付けるその強欲さと虚栄心をともに露呈した。ヒスパニア・ウルテリオルで執政官代行のクィーントゥス・カッシウス・ロンギーヌスと、彼の財務官マールクス・マルケ^ルスが互いに対して戦を仕掛けていたが、レピドゥスは彼らを降伏するように強いて、その結果レピドゥスは戦わずして最高指揮権を持っているかのごとき態度を取った。

 前47年ローマに帰ると、カエサルは凱旋式を許してレピドゥスの虚栄心を喜ばせたが、ディオン・カッシウス(xliii.1)が言うには、彼には属州で強奪した金しか戦利品として飾るものはなかったという。翌年カエサルはレピドゥスを自分の騎兵隊長とし、また執政官職の同僚とした。この前46年の11月にカエサルは急いでヒスパニアに出陣し、次の年の政務官を選ぶことを託されたレピドゥスはカエサルを、翌前45年の「同僚なしの執政官」に選出した。彼はまた同様にカエサルによって、前45年に2回目の、前44年に3回目の騎兵隊長に指名された。

 前44年、レピドゥスはカエサルからガリア・ナルボネンシスとヒスパニア・キテリオルの統治権を与えられたが、カエサルが暗殺されることになる時期には彼はローマからまだ去っていなかった。その頃彼は自分の属州から軍隊を集め始めており、そのためかの共謀者達はカエサルのそばにいるアントーニウスとレピドゥスを殺してしまうことを考えたのだが、その計画は却下されていた。

 運命の3月15日の前の日の夕方、カエサルはレピドゥスの家に招かれて食事をした。その時カエサルはいつものように寝椅子に横になりながら手紙に署名をしていたが、たまたま「どういう死に方が一番いいか」という話題になった時、カエサルは誰よりも先に大きな声で「思いもかけない死だ」と言ったという。

 翌日、レピドゥスはカンプス・マルティウスのポンペイウスのクーリアにおり、カエサルが暗殺者達の短剣に倒れるのを見た(レピドゥスがいなかったというのは、あまりありそうにない)。レピドゥスは、アントーニウスらカエサルの他の友人達と急いで元老院の建物から移動し、密かに人目を避けて別の家に逃げ込んだ。その後彼は数時間隠れた後、ローマ近辺の領地の自分の部隊の所に行き、彼の手に最大の力が握られたように見えた。

 それゆえ3月15日の夜に、レピドゥスは兵士たちを用いて元老院を占領し、翌朝、独裁官の暗殺者達に対して激しい怒りを起こさせるために人々に演説した。しかしアントーニウスはレピドゥスに、暴力に訴えることを思いとどまらせ、続けておこなわれた貴族達の話し合いでレピドゥスはアントーニウスの意見を全面的に採用した。それゆえ、彼は貴族達とカエサルの友人達との間に行われたうわべだけの和解の当事者となった。レピドゥスがアントーニウスに与えた援助の見返りに、アントーニウスはレピドゥスを、カエサルの死によって空位となった最高神祇官の地位に選任した。そして、彼らの同盟をより強固にするために、アントーニウスは彼の娘とレピドゥスの息子を婚約させた。

 アントーニウスはローマにいたレピドゥスとそれ以上の機会を持たなかったため、レピドゥスは自らの管轄州であったガリアとヒスパニアに行ったが、それはセクストゥス・ポンペイウスと新しいローマの支配者達(アントーニウスなど)との間に和解をもたらすという特別な目的のためであった。これはアントーニウスの提案に対する計画であり、アントーニウスは、ポンペイウスがヒスパニアから退いてローマに来るようにと望んでいたのである。レピドゥスは、以前の内乱でカエサルに敵対していたセクストゥスと元老院が手を組んで、アントーニウスたちと戦うような内戦がもう一度起こらぬように、ガリアとヒスパニアで軍隊を掌握することで元老院からその軍勢のかなりの部分を奪ってしまった。元老院はアントーニウスの構想を見通していなかった。レピドゥスは自らの任務を成功させ、したがって名誉の証を両方の党派から受けた。11月28日、元老院はアントーニウスの提案で、彼を赦すことを決議した。

 その後すぐに、公然の断交がアントーニウスと元老院の間で生じた。アントーニウスは民衆から属州ガリア・キサルピナを得たが、それはその時デキウス・ブルートゥスが受けていたもので、彼はアントーニウスに引き渡すことを拒否した。そのためアントーニウスは彼に対して進軍し、ブルートゥスは野戦で彼に対抗することができなかったので、ムティナの町に逃げ込んだが、ムティナはただちにアントーニウスによって包囲された。元老院はブルートゥスの側を支持し、今や、レピドゥスを説いて彼らの側に参加させることを非常に切望していた。というのは、レピドゥスはアルプスの向こう側に強力な軍を持っており、彼がそうしたいと思えば、アントニウスを簡単に撃破できたからである。それゆえ、彼がセクストゥス・ポンペイウスに武器を置く気にさせたという理由で、レピドゥスに対して追加の名誉の証を示すという口実の元、元老院は、キケローの提案で、レピドゥスの騎馬像を可決し、彼にインペラートルの称号を送った。

 しかしレピドゥスはどちらに加わるかをためらい、彼自身がどちらかに加勢する前に、アントーニウスと元老院の間の争いの結果を待つのを切望していたようである。レピドゥスは自分に名誉を与えるという布告を出した元老院に感謝などしていなかった。そして、元老院がレピドゥスに、ムティナの包囲を解くためにイタリアへ進軍し、執政官のヒルティウスとパンサを援助するように要求した時、彼は自分の軍勢から分遣隊をマールクス・シルウァーヌスの指揮でアルプスを越えて送っただけであったが、レピドゥスがシルウァーヌスに与えた指令があまりにもおぼつかないものであったので、シルウァーヌスはその軍勢をアントーニウスに対して戦わせるよりは自らの将軍の意にかなうであろうと考えて、アントーニウス側に参加した。その間に、レピドゥスは元老院に和平をすすめる手紙を書いて、キケローと貴族党の人々から不興を買っていた。その後すぐ、4月の後半に、アントーニウスに包囲を解き戦うことを強いて、戦いがムティナの周辺で行われた。アントーニウスはその軍勢の残りと共にアルプスを越え、レピドゥスに向かってまっすぐ進んだ。レピドゥスは、もう長く中立の立場を保っておくことはできないことを悟り、5月28日に自軍とアントーニウスの軍を合流させた。それゆえ元老院は、6月30日にレピドゥスを共和国の敵と宣言し、彼の像を引き倒すことを命じた。

 若きオクターウィアーヌスは、まだ名目上は元老院と共に行動し続けていた。しかし平素の彼の洞察力で彼はすぐに、元老院はアルプスの向こう側で集められていた強い軍勢に抵抗することはできないと見通し、それゆえ、落ち目の側を捨てる決心をした。その上レピドゥスとアントーニウスの軍には今や、ヒスパニア・ウルテリオルの統治者アシニウス・ポ^リオーと、ガリア・トランザルピナの統治者ルーキウス・ムーナーティウス・プランクスが結合し、最も恐ろしい軍隊と共に、アルプスを越える準備をしていた。8月にオクターウィアーヌスは、元老院に自分を執政官に選ばせ、同様にレピドゥスとアントーニウスに対する布告を破棄させた。10月の終わり頃に、オクターウィアーヌスは有名な会談をレピドゥスとアントーニウスとの間でボノニアにおいて行い、その結果三頭政治を結ぶことになった。

 三頭政治の間で属州が分割され、レピドゥスはヒスパニアとガリア・ナルボネンシスを得たが、彼はそこを代理の者に統治させた。それは、他の二人がブルートゥスとカッシウスに対する戦争を行っている間に、彼が次の年の執政官としてイタリアに残れるかもしれない、という目的でであった。彼の大軍勢のうち、3個軍団だけがイタリア防衛のために彼に保持されていた。残りの7個軍団は、オクターウィアーヌスとアントーニウスとの間で分割されていた。そのためレピドゥスは、今にも起こりそうな三頭政治と元老院との間の闘争において、副次的な役割しか演じることができなかった。そしてこれに関して、彼は満足していた様に見える。というのは、彼はいかなる冒険心への好みも示したことがなかったからである。三頭政治がローマに帰ってきた時に発行された追放者リストには、レピドゥス自身の関係者として彼は自分の兄弟であるパウルスの名前を置いた。その後すぐ、12月31日に、前年に元老院が議決した祈願の結果として、凱旋式を挙行した。

 レピドゥスはヒスパニアで再度勝利した後、前42年に2度目の執政官となったが、フィリッピの戦役の後、レピドゥスはセクストゥス・ポンペーイウスとの間に共謀があるという噂のために、同僚によってその属州を奪われた。そうしたことですぐに、オクターウィアーヌスとアントーニウスは、レピドゥスに、彼は他の二人と同等なのではなく、従属的な立場なのだと感じさせた。三頭政治はその後レピドゥスに対して何も示さなかった。レピドゥスは自分が奪われた属州の埋め合わせに、アフリカを受け取るはずであったが、前40年のペルージアとの戦争の後まで、オクターウィアーヌスはレピドゥスにその属州を持つことを許さなかった。そして恐らくレピドゥスはその時でさえも、オクターウィアーヌス自身がアントニウスとの間が悪くなった時に備えて、レピドゥスとの関係を継続しておこうと思わなかったならば、その属州を手に入れることはなかっただろう。実際のところ、レピドゥスはこの時にオクターウィアーヌスを支援したものの、ほとんど効果はなかったのである。

 レピドゥスは前36年までアフリカに留まっていた。前37年にタレントゥムで、三頭政治があと5年延長された時、レピドゥスはその中に含まれていたものの、話し合いに加わることができず、実質的な力は全く失ってしまっていた。翌前36年、オクターウィアーヌスはレピドゥスをシチリアへ、セクストゥス・ポンペーイウスに対する戦争を支援させるために呼び出した。レピドゥスはそれに従ったが、従属的な扱いを受けることにうんざりし、彼は自分自身のためにシチリアを手に入れ、失った勢力を再び得るための努力をする決心をした。レピドゥスは前36年の1月1日にアフリカを離れ、シチリアに着くと、オクターウィアーヌスへの相談なしに、ひとりで自分のための行動に取りかかった。レピドゥスはまず、リリュバリウムとその近隣の町を征服し、次にマッセナに対して進軍してこれも征服した。後者の町の守備隊で構成されていたポンペーイウスの8軍団は彼に加わり、そのため今や彼の軍は20個軍団に達した。レピドゥスはそれゆえ、彼自身が充分に脅威を与えられるほどの強さになったと感じ、それゆえにオクターウィアーヌスが着くとすぐ、自分のためにシチリアと、共和政の中の三頭政治として、同じ取り分を要求した。内乱は避けられないように見えた。しかし、レピドゥスは自軍兵士たちからの信頼を得られていなかった。オクターウィアーヌスは彼らの忠誠心を捨てさせる方法を見つけ出し、そして充分に、彼らの大部分に確かな支援を感じさせ、ある日になんとレピドゥスの陣営の中に乗り込むという大胆な決意を採用し、そして彼の部隊に内乱から自分たちの故郷を守るように呼びかけた。このあえて行われた試みはすぐに成功しなかったにもかかわらず、またオクターウィアーヌスは胸に傷を受けてリタイアしなければならなかったが、しかし結局は望まれた結果を得た。離反に次ぐ離反はレピドゥスを見捨て、レピドゥスはもうオクターウィアーヌスに降服しなければならない事を悟った。彼の勇敢さのすべてが、今や彼を見捨てた。彼は悲しみをよそおって、オクターウィアーヌスの膝元に身を投げ出し、命乞いをした。オクターウィアーヌスはそれを認めてやったが、レピドゥスから三頭政治への参加と、軍隊と、属州を奪い、厳重な監視付きでキルケイに住むべきことを命じた。しかしオクターウィアーヌスは、レピドゥスに個人資産と、最高神祇官の地位を保持することを許した。

 こうして、レピドゥスの公的な人生は終わった。アクティウムの戦いの時に、彼の息子がアウグストゥスの命を狙った陰謀の後、レピドゥスはローマに戻ることを命じられた。そしてレピドゥスは、その陰謀には関わりがなかったにもかかわらず、アウグストゥスによって最大の恥辱で扱われた。その名誉、官位の喪失と、さらされた侮辱にもかかわらず、彼は短命にならず、前13年まで生きた。アウグストゥスは最高神祇官の地位をレピドゥスの存命中は奪おうとせず、彼が死んでからやっとそれを引き継いだ。

 レピドゥスは決断の出来なかった性格の人たちのうちの一人で、大きな悪事に参加することができなかったし、同じ理由で、何か高貴な行動をすることもできなかった。彼は莫大な富を所有しており、他のほとんどすべての同時代人と同じように、富を得る方法に関して誠実とは言えなかった。戦時においても、平和な時においても、彼は何らかのすぐれた能力を見せたことはなかった。二人のパートナーより社会的地位や受け継いだ庇護関係は勝っていたが、彼は支持を組織化する能力と、権力を追い求める姿勢に欠けていたのである。だが彼はそう卑劣な人物でもなかった。それは、かの偉大なる人間の判定者であったユーリウス・カエサルによってレピドゥスが常に敬意を持って遇されていたことから考えて、かなり確かであるように思われる。レピドゥスが、平静と安心を非常に好む人物であったことは明らかで、ことによると、彼は彼が実際におこなったことよりももっと有能な能力を持っていたのかもしれない。

 彼の妻はユーニアで、カエサルを殺したマールクス・ブルートゥスの姉妹であった。



 ↑三頭政治のレピドゥスのコイン




Scipio
 スキーピオー

父:Marcus Aemilius Lepidus(78執政官等)
兄弟:Lucius Aemilius (Lepidus) Paullus(50執政官等)
   Marcus Aemilius Lepidus(46執政官等)
   Aemilius Regillus

 三頭政治のレピドゥスの兄弟で、スキーピオーの家系の誰かの元へ養子に行ったに違いない。彼は前77年の、彼の父の貴族党に対する戦いで、戦場に倒れた(オロシウス、5.22)。






Marcus Aemilius Lepidus
 マールクス・アエミリウス・レピドゥス

貴族
父:Marcus Aemilius Lepidus(46執政官等)
母:Junia(カエサル暗殺者ブルートゥスの姉妹)
妻:Antonia(三頭政治のアントニウスの娘)?
  Servilia
息子:Manius Aemilius Lepidus(後11執政官)?
娘:Aemilia Lepida?

 三頭政治のレピドゥスの息子。

 彼は恐らく彼の父の受けた恥辱の仕返しのために、前30年に、アクティウムの海戦の後ローマに帰還するオクターウィアーヌスを暗殺しようとする陰謀をたくらんだ。しかしこの時のローマ市の責任者であったマエケナスはこの陰謀の情報をつかむと、何らの騒ぎを起こすこともなくレピドゥスを捕らえ、まだ東方にいたオクターウィアーヌスの元に送り、レピドゥスは死刑となった。

 彼の父はこの陰謀を知らなかったが、彼の母親はこれに内々関知していた。

 オクタウィアヌスの敵については好意的なことを決して書かなかったウェレイウス・パテルクルスは、レピドゥスを以下のように言っていた。“juvenis forma quam mente melior.”

 彼の妻のセルウィーリアは恐らくかつてオクターウィアーヌスと婚約していた人物であったが、夫の陰謀が露見した時に、燃えた石炭を飲み込んで自殺した。

 彼か、あるいは他の三頭政治のレピドゥスの息子は、早くにアントーニア(三頭政治のアントーニウスの娘)と婚約していた。

 三頭政治のレピドゥスの息子であることが確実に分かっている人物は彼のみであるため、三頭政治のレピドゥスの孫とされる後11年執政官のマーニウス・アエミリウス・レピドゥスやその姉妹レピダの父親であると推測される事もあるが、不明確である。というのは、この後11年執政官マーニウス・アエミリウス・レピドゥスの父名はクィーントゥスであると伝えられているからである。







Paullus Aemilius Lepidus
 パウ^ルス・アエミリウス・レピドゥス

貴族? ?-後13(死因不明)
父:Lucius Aemilius (Lepidus) Paullus(50執政官等)
母:Appuleia
妻:Cornelia
その息子:Marcus Aemilius Lepidus(後6執政官)
     Lucius Aemilius Paullus(後1執政官)
その娘:Aemilia Lepida
妻:Claudia Marcella(小マルケラ。Octaviaの娘)
その娘:Claudia Pulchra(→ただし複数の系図資料ではウァレリウスの娘である)
34補欠執政官
22監察官

 三頭政治のレピドゥスの兄の息子。彼はしばしば父と混同されている。彼の名前は古代の著作家によって様々に伝えられており、Aemilius Paullus や Paullus Aemilius、あるいは Aemilius Lepidus Paullus などがあるが、Paullus Aemilius Lepidus がより正しい形だと思われる。彼の元の名がLucius Aemilius Paullusであったのを、ある時点でPaullusを個人名にしたらしい(この当時はこのようなことが貴族の慣習となっていた。アウグストゥスがもはやガーイウスの名を使わず、インペラートルをプラエノメン的に使用したのも同じである)。

 彼はおそらく、彼の父親とともに前43年に追放されてブルートゥスのもとに逃げ、ブルートゥスによってクレタの防衛を任されて勝利した。またブルートゥスの死後、クレタの部隊と共に共和主義者たちの残りと合流し、イオニア海に彼らを船で送った。

 その後彼はオクターウィアーヌスに加わり、前38年にセクストゥス・ポンペーイウスに対する戦いに同行した。

 彼は34年に補欠執政官となり、次にシリアかマケドニアで執政官代行(属州総督)として統治した。

 前22年、彼はカエサルの副官であったルーキウス・ムーナーティウス・プランクスとともに監察官となった(監察官がペアで選ばれた最後の例)が、プランクスと口論のあげく、職を辞してしまった。

 彼は、父が始めたバシリカ・アエミリアの修復を完了させた。彼は鳥占官で、恐らくfrater arvailsであった。

 彼の最初の妻は、スクリーボーニアと誰かあるスキーピオーとの娘であるコルネーリアであった。スクリーボーニアはその後アウグストゥスの妻となった為、コルネーリアはアウグストゥスの継子という事になる。コルネーリアの早すぎる死は、プロペルティウスによって慰めの哀歌の主題とされた(4.11)。これは彼女の夫であるパウ^ルスを慰めるためであった。彼らの間には二人の息子と一人の娘が生まれた。二人の息子とは、ルーキウス・アエミリウス・パウ^ルスと、マールクス・アエミリウス・パウ^ルスである。ルーキウス・アエミリウス・パウ^ルスは、コルネーリアの異父妹(アウグストゥスとスクリーボーニアの間の娘で、アウグストゥスの唯一の実子)であるユーリアの娘ユーリアと結婚し、この家族は皇帝の一家と一層緊密に結びつくことになった。娘アエミリア・レピダは、父が監察官職にある時に生まれたというが、その後の事は知られていない。

 後に彼は、ガーイウス・クラウディウス・マルケ^ルスとオクターウィアの娘であるクラウディア・マルケ^ラ(小マルケ^ラ)と結婚した。彼女の母方の叔父はカエサル・アウグストゥスである。この夫婦の間にクラウディア・プルクラ(前14年〜後26年)が生まれたとする資料もある(ただし複数の系図資料ではウァレリウスの娘である。)。

 パウ^ルスは前13年に死去したが、その死因は不明である。


 下のコインは恐らく、このPaullus Aemilius Lepidus に言及している。表にはコンコルディアの頭部と PAVLLVS LEPIDVS CONCORDIA の文字が、裏には数人の人の姿と共に、トロフィーが、TER PAVLLVS という言葉と共に描かれている。裏は、ペルセウスに対してL.Aemilius Paullus が得た戦勝凱旋式がふれられている。トロフィーの右側には、Aemilius Paullus 自身が立ち、左側にはペルセウスと、彼の二人の息子が立っている。Terは彼の最後の3日間の勝利についてのことか、あるいは彼が3度の異なった凱旋式を経験していたことを表しているのかもしれない(Comp.Eckhel,vol.pp.130,131.)。



 他にもう一つ、Paullus Aemilius Lepidus のコインがあり、表には上に挙げたものと同一であるが、裏にはScriboniaのputealが描かれており、我々はこのコインにScribonia氏族と、PVTEAL SCRIBON.LIBO.の伝説を見いだす。このスクリボニア氏族の印は、Paullusの妻がスクリボニアの娘であったことから使用された。そのスクリボニアは、前述したように後にアウグストゥスの妻となった。





Quintus Aemilius Lepidus
 クィーントゥス・アエミリウス・レピドゥス

父:Manius
21執政官

 クィーントゥス・アエミリウス・レピドゥスは、前21年にアウグストゥスの支援者であったマールクス・ロ^リウスと共に執政官であった。ファブリキウス橋に記された銘によると、彼とロ^リウスは、ファブリキウス橋を修理したらしい。

 このレピドゥスの家系については全く明らかではない。Drumannの推測では、彼が三頭政治のレピドゥスの息子であるということはそれ自体ありそうにない。その上彼は銘に、M.F.(マールクスの息子)ではなく、M'.F.(マーニウスの息子)と書かれていたのである。






Marcus Aemilius Lepidus
 マールクス・アエミリウス・レピドゥス

貴族 ?-後33
父:Paullus Aemilius Lepidus(34補欠執政官)
母:Cornelia Scipio
兄弟:Lucius Aemilius Paullus(アグリッパとユリアの娘ユリアの夫)
娘:Aemilia Lepida(ゲルマニクスの息子ドルススの妻)
息子:Marcus Aemilius Lepidus(ゲルマニクスの娘ドルシラの夫)
後6執政官
ヒスパニア・キテリオル属州総督
アシア属州総督


 マールクス・アエミリウス・レピドゥスは、パウ^ルス・アエミリウス・レピドゥスと、コルネーリア(スクリーボーニアと誰かあるスキーピオーとの間の娘)の、恐らく上の息子である(以前は下の息子と見られていたようで、邦訳の『年代記』でも下の息子として扱われているが、『The Oxford Classical Dictionary』の最新版では上記の様になった)。兄弟のようにアウグストゥスに対して陰謀を企むのではなく、彼は常にアウグストゥスと親密な関係にあったようである。タキトゥスは彼の慎重さと節度を強調した。

 彼は後6年の執政官で、アウグストゥスによって、パンノニアに対する戦争に従事させられ、その時パンノニアの反乱でティベリウスの下で務めた。後8−9年彼はティベリウスとともにパンノニアですばらしい戦果を挙げたため、凱旋式顕彰を得た。そして恐らくその後ダルマティアで長年務めた。

 後14年に彼はヒスパニア・キテリオル(タラコネンシス)の統治者として(どれくらいの長さかは分からないが恐らく数年間)、属州アシアでの総督の時ほどでなかったにせよ、成功を収めた。

 アウグストゥスの前で最後の雑談がおこなわれていて(後14年)、話題がたまたま、元首の地位にふさわしい人物に触れ、ふさわしくても受け取るのを拒むのは誰か、資格もないのに希望するのは誰か、実力もあり同時に願っているのは誰か、という話になった時、アウグストゥスはこう言った。「マールクス・レピドゥスは、皇帝になる能力があるが、それを軽蔑している。」(タキトゥス『年代記』1.13.2)。

 この、アウグストゥスによって持たれた高い評価は、あの嫉妬深く疑い深いティベリウス帝によってさえも維持された。また彼は、皇帝に向かってひんぱんにおこなわれた元老院の度の越えたお世辞に参加せず、自らの影響力を正義のために使用した。それは彼の用心深さのためであったが、ティベリウスからの好意を失うことはなかった。

 後20年に彼は元老院でグナエウス・カルプルニウス・ピーソーを弁護した(タキトゥス『年代記』3.11.2.)。

 後21年に彼はティベリウスから、ユーニウス・ブラエススかどちらかがアフリカ属州総督になるようにと指名された。ブラエススが親衛隊長セイヤヌスの叔父であったことから彼は慎重に、これを辞退した(タキトゥス『年代記』3.35.)。しばしば彼は元老院での裁判で、刑の軽減を主張した(タキトゥス『年代記』3.50;4.20.2)。

 ティベリウスが他人の財産を没収しようとしていた時、アシニウス・ガ^ルスという人物がある女性を追放し、「彼女の財産の半分を没収し、半分は子どもらに譲ってやるべきだ」と提案したのに対して、マールクス・レピドゥスは「法律の定めるところに従って、4分の1を告発者に、残りを遺児に与えるべきだ」と主張した。タキトゥスはこの様に書いている。「私はこのレピドゥスが、その時代を通じて常に、重厚にかつ賢明に振る舞った人であると、確信する。実際、他の人の冷酷な奴隷根性から生まれた意見を、しばしば穏当な方向に修正したのが、彼である。しかし、その時もレピドゥスは、謙虚な態度を失っていなかった。そのために、生涯かわりなく、ティベリウスの尊敬と愛顧を受けられたのである。」(タキトゥス『年代記』4.20.)

 後22年、レピドゥスは、アエミリウス氏族の記念碑であるパウルス公会堂(バシリカ・アエミリア)を個人の費用で修復し装飾する権利を元老院に要請し許可され、修復をおこなった。レピドゥスはあまり財産を持たなかったが、ティベリウスが財政的に援助した(タキトゥス『年代記』3.72)。

 彼はのちにアシアでの執政官代行を受け入れたが、軍隊はなかった(恐らく後26-8年、あるいは29年まで)。後32年には、コッタ・メッサリヌスが元老院において、レピドゥスの勢力について愚痴を述べた(タキトゥス『年代記』6.5.1)。

 彼は後33年に死去した。タキトゥスはレピドゥスの死を書き記す時に以下の様に書いている。「彼の謙虚な性格と賢明な思慮については、すでに充分に述べた。彼の高貴な血統について、贅言を必要としない。アエミリウス氏からは、優れた政治家が多く輩出している。そしてこの一門の人は、道徳的に堕落しても、一流の地位に就いた。」(タキトゥス『年代記』6.27.4)

 彼の子どもには、アエミリア・レピダとマールクス・アエミリウス・レピドゥスがいる。アエミリア・レピダはゲルマニクスの息子ドルーススと結婚した。レピドゥスの存命中は彼の影響力が彼女を守ったが、彼の死後3年目にレピダは奴隷との姦通罪のかどで告発され、自殺した。息子マールクス・アエミリウス・レピドゥスはゲルマニクスの娘ドルーシ^ラと結婚し、カリギュラ帝に相続を約束されたが、陰謀に加担したかどで後39年に死刑に処された。

 



Lucius Aemilius Paullus
 ルーキウス・アエミリウス・パウ^ルス

貴族 ?-後8?/後13?/後14?
父:Paullus Aemilius Lepidus(34補欠執政官)
母:Cornelia
兄弟:Marcus Aemilius Lepidus(後6執政官)
妻:Julia(Marcus Vipsanius Agrippaの娘)
娘:Aemilia Lepida(Marcus Junius Silanus の妻)
後1執政官

 ルーキウス・アエミリウス・パウ^ルスは、パウ^ルス・アエミリウス・レピドゥスと、スクリーボーニアとあるスキーピオーの娘であるコルネーリアとの間の、下の息子。

 彼はアウグストゥスの娘ユーリアと、アグリッパの間の娘であるユーリア(つまりアウグストゥスの孫娘に当たる)と結婚した。それゆえパウ^ルスはアウグストゥスのprogener(孫娘の夫)と呼ばれた。アウグストゥスの娘ユーリアは、彼の母コルネーリアの異父姉妹であったので、パウ^ルスはいとこと結婚したことになる。

 彼は、後1年に、アウグストゥスの孫で、彼の妻の兄弟であったガーイウス・カエサルと共に執政官となった。彼はその皇帝の一族との密接な関係にも関わらず、後8年頃にアウグストゥスに対する陰謀に参加したが、その詳細は分からない。(スエトニウス『ローマ皇帝伝』アウグストゥス19;64)。

 『The Oxford Classical Dictionary』第3版改訂版(2003年)では、彼はこの陰謀のために処刑されたとしているが、『New Pauly』では陰謀の後に追放され、後13年か14年に死去したと記している。『Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology』は彼の死について何も記していない。

 彼の娘であるレピダと若きクラウディウス(後のクラウディウス帝)の間の婚約は、彼の陰謀と妻ユーリアの汚名(後8年に姦通罪のかどで永久追放)が原因で解消されてしまった。後に彼女はマールクス・シーラーヌスと結婚した。これは恐らく後19年の執政官であったマールクス・ユーニウス・シーラーヌスのことであろう。このため彼ら二人の間の子どもたちは「abnepotes Augusti」(アウグストゥスの玄孫(孫の孫))となった(タキトゥス『年代記』13.1)。

 多くの資料ではルーキウス・アエミリウス・パウ^ルスには娘の他に、ゲルマニクスの娘ドルーシラと結婚したマールクス・アエミリウス・レピドゥスという息子がいたとされる。しかしこのマールクス・アエミリウス・レピドゥスは最新版の『The Oxford Classical Dictionary』では明確に後6年執政官のマールクス・アエミリウス・レピドゥスの息子とされているので、本稿ではそれに従う。







Aemilia Lepida
 アエミリア・レピダ

貴族 ?-後36
父:Marcus Aemilius Lepidus(後6執政官)
兄弟:Marcus Aemilius Lepidus(カリギュラの姉妹ドルーシラの夫)
夫:Drusus(ゲルマニクスの息子)

 後6年の執政官、マールクス・アエミリウス・レピドゥスの娘で、ゲルマニクスとアグリッピーナの間の息子のドルーススと結婚した。彼女は放蕩な性格の女性で、夫を限りなく弾劾し迫害し、世間から憎悪されていた。ただしドルーススを憎んでいたティベリウスにとっては楽しい光景であったようである。

 彼女の父はティベリウスによって常に非常に尊重されており、父が生きていた間、彼女は自分のしたいようにできていた。しかし、後33年に、父の死によって彼女がこの強力な庇護を失うと、彼女は後36年に密告によって、奴隷と肉体関係を持ったという姦通の罪で訴えられた。彼女はその罪を否定することができなかったため、自身の弁護を放棄して自殺した(タキトゥス、『年代記』6.40)。






Marcus Aemilius Lepidus
 マールクス・アエミリウス・レピドゥス

貴族 ?-後38
父:Marcus Aemilius Lepidus(後6執政官)
姉妹:Aemilia Lepida(カリギュラの兄弟ドルーススの妻)
妻:Drusilla(ゲルマニクスの娘、カリギュラの妹)

 マールクス・アエミリウス・レピドゥスは、後6年の執政官マールクス・アエミリウス・レピドゥスの息子で、この家系の最後の人物。

 彼はカリギュラ帝に非常に気に入られていたため、カリギュラは彼に、最低年限の5年前に国家の公職に就くことを許した上、彼をカリギュラの後継の皇帝とすることを約束さえしていた。その上カリギュラは、熱烈に愛していた姉妹のドルーシラを彼と結婚させた。さらにカリギュラは彼に、他の姉妹小アグリッピーナとユリア・リウィ^ラと性交を結ぶことを許したという。

 しかし後38年にドルーシラが亡くなり、後39年に彼はコルネーリウス・レントゥルス・ガエトゥリクスや小アグリッピーナ、ユリア・リウィ^ラと共に、カリギュラを除こうとする同盟を結び、自分が皇帝になろうとしたという理由でカリギュラの命令によって処刑された(ガエトゥリクスは自決、姉妹はポンティア島に流刑となった)。








Aemilia Lepida
 アエミリア・レピダ

貴族
父:Lucius Aemilius Paullus(後1執政官)
母:Julia(Marcus Vipsanius Agrippaの娘)
夫:Marcus Junius Silanus(後19執政官)

 アエミリア・レピダは、ウィプサニア・ユーリアと彼女の父ルーキウス・アエミリウス・パウ^ルスとの間の一番上の娘であった。彼女はアウグストゥスの最初の曾孫であり、三頭政治のマールクス・アエミリウス・レピドゥスの子孫であった。

 若い頃彼女はごく若いクラウディウスの許嫁であったが、アエミリアの両親がアウグストゥスの寵愛を失い、そのためアウグストゥスがそれを破棄した。彼女は後にマールクス・ユーニウス・シーラーヌス・トルクァートゥス(後19年執政官)と結婚した。彼らの間には5人の子どもが知られている(邦訳『年代記』『ローマ皇帝伝』の巻末の系図にすべての子の名前が載っている)。






Aemilia Lepida
 アエミリア・レピダ

貴族
祖父:Marcus Aemilius Lepidus(46執政官等)
父:Quintus
弟:Manius Aemilius Lepidus(後11執政官)
夫:Lucius Julius Caesar(アウグストゥスの孫)
  Publius Sulpicius Quirinus(12執政官)
  Mamercus Aemilius Scaurus(後21補欠執政官)
娘:名前不明(スカウルスとの間の子)


 後11年の執政官、マーニウス・アエミリウス・レピドゥスの姉。彼女は三頭政治のレピドゥス、ス^ラと大ポンぺーイウスの血を引いており、また、アウグストゥスの孫であるルーキウス・カエサルの妻となった。

 彼女はその後、裕福で子どものないプーブリウス・スルピキウス・クィリーヌス(前12年の執政官)と結婚したものの、彼は彼女を離婚し、離婚後20年も経った後20年、偽って彼との間に嫡子を産んだという偽の届け出を出したということで彼女を訴えた。同時に、彼女は、姦通、前夫の毒殺を図ったこと、及び皇帝の一家を傷つける目的で占星師に相談したというとがでも告発された。

 彼女は放蕩な性格の女性であったが、にもかかわらず、前の夫は離婚を宣言してからずっとこの頃まで彼女を執念深くいじめていたため、彼女への起訴は民衆の間に大きな同情心を起こさせた。ティベリウスはその真意を隠したものの、その起訴に賛成であることは明らかであった。

 レピダは、審理を中断させた祭の日に、名門の婦人らといっしょに、劇場に現れた。そこで、彼女は涙を流して嘆き、祖先の名前を呼び、とりわけこの劇場の建立者で、その人の立像が見られたポンペーイウスの名をあげ、人々の同情をはげしくかきたてた。見物人たちは涙に浸りながら、クィリーヌスに、乱暴な呪いの言葉を投げつけた。「この老い耄れの、子のない、下賤な素性の男のため、かつてのルーキウス・カエサルの妻に、神君アウグストゥスの孫嫁に約束されていた婦人が、犠牲に供されようとしている」と。

 やがて奴隷の拷問で、彼女の破廉恥罪が暴露された。元老院はルベ^リウス・ブランドゥスの意見に歩み寄って、彼女に水と火の禁止を宣告した(→水と火の共有(文明生活)を禁じられるの意。イタリア以外の土地に暮らし、市民権剥奪、財産没収)。これにドルーススは同意したが、他の者はもっと軽い刑を提案していたのである。それで、レピダとの間に娘をもっていたマーメルクス・アエミリウス・スカウルス(後21補欠執政官)の顔をたて、彼女の財産を没収しないことを決議した。この時になって初めて、ティベリウスは、「クィリーヌスの奴隷から、直接打ち明けられたことだが」とことわって、レピダがクィリーヌス毒殺を計画していたことを明るみに出した。(タキトゥス、『年代記』3.22,23。スエトニウス『ローマ皇帝伝』ティベリウス,49)。





Manius Aemilius Lepidus
 マーニウス・アエミリウス・レピドゥス

貴族
祖父:Marcus Aemilius Lepidus(46執政官等)?
父:Quintus
姉:Aemilia Lepida
娘:Aemilia Lepida(ガルバ帝の妻)
後11執政官
アシア属州総督

 マーニウス・アエミリウス・レピドゥスは、恐らく三頭政治のレピドゥス、および、ファウストゥス・コルネーリウス・ス^ラ(有名なス^ラの息子)とポンペーイウスの娘ポンペーイアの孫で、後11年の執政官。彼は同時代のマールクス・アエミリウス・レピドゥスと注意深く区別されるべきで、しばしば混同されていた

 後20年にピーソーを弁護したマーニウス・レピドゥスというのは恐らく彼のことで、その後同年に彼の姉を弁護したレピドゥスは間違いなく彼のことである(タキトゥス『年代記』3.22)。しかしこの弁護は成功しなかった。

 後21年に彼は属州アシアを得たが、セクストゥス・ポンペイウスは元老院で、レピドゥスにそれを与えないでおくべきだと主張した。なぜなら、彼は怠惰で、貧乏で、祖先の面汚しだからだというのである。しかし元老院はポンペイウスの主張に耳を傾けず、レピドゥスは怠け者というよりはゆったりした人なのであって、また、彼が小さな世襲財産の中で暮らしている態度というのも、彼の恥辱であるというよりはむしろ彼の名誉である、と主張した(タキトゥス『年代記』3.32)。

 彼の娘のレピダは、後に皇帝となるガルバと結婚した。






Aemilia Lepida
 アエミリア・レピダ

貴族
父:Manius Aemilius Lepidus(後11執政官)
夫:(後の)ガルバ帝
息子:二人(名前不明)

 アエミリア・レピダは、マーニウス・アエミリウス・レピドゥスの娘である。後にローマ皇帝となったガルバと結婚した。ガルバは夫婦の契りを誠実に守った。彼女は彼との間に二人の息子をもうけた。レピダの死後、彼はずっと独身を貫き、どんな縁談(小アグリッピーナとの縁談話もあった)にも気持ちを乱されなかった。

 レピダがまだ生きていた時、小アグリッピーナ(その時グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスの死後で寡婦となっていた)は恥知らずにもガルバに言い寄り、手練手管を弄してうるさく誘惑したので、レピダの母が上流婦人のある会合で小アグリッピーナを叱りつけ、いがみあいとなり、ついには彼女の顔をひっぱたいた(スエトニウス『ローマ皇帝伝』ガルバ5)。







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